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魔法少女のステッキ

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【感想】 『神様のすること 平安寿子』 ”死”というものを考える

『神様のすること 平安寿子』 あらすじと感想 

神様のすること

神様のすること

 

☆〈あらすじ〉

 物語を書くことにしか情熱が持てないわたしが四十歳間近で願ったこと。それは、〈二親を無事に見送ること〉と〈小説家になりたい〉という二つ。なんだかんだあったけど、神様は、わたしの願いを聞いてくれた。でも、ただで叶えてくれたわけではない―――。誰もが経験する肉親との別れを、ペーソスあふれる平節で綴った、笑って泣ける超私小説

 

☆〈感想・ネタバレ有り〉

 七十七歳の母が倒れた。三日後、意識を取り戻した母は「八十三まで生きることにした」と口にした。「近くまで行ったのに、帰された」と。せっかちな母のことだから、あちらの窓口に早く行き過ぎたのかもしれない。ともあれ、”わたし”は「母の寿命は八十三」と考えて過ごすことにする。

 そんな母が死を迎えるまでの、母と”わたし”と家族の物語である。

  • ”死”を持って”生”を感じる
  • 死を待つ人間に要る体力と精神力

 『親の死』がメインテーマである本作は読み手の年齢、介護経験の有無、によって様々な感じ方になるだろう。

 ちなみに私は20代、介護経験なし、両親健在である。私が述べる感想は「親の死」や「介護」が想像でしかないことをここに明記しておきたい。

☆”死”を持って”生”を感じる とは

 危機を脱して意識を取り戻した母は奇妙な混乱状態にあった。急に歌を歌ってみたり、踊ってみたり。あるときには若かれし頃の母、あるときには鬱だった時の母が顔を出すのだ。

 そんな母を見て”わたし”は「今日は~歳くらいの母だな」「あの頃の母はこんな感じだった」と思い返すのである。

 ”誰かの生き様を思い返す”ということはそうそうない事だと私は思う。それこそ故人を思う時くらいではないだろうか。

 「両親の死」というものに直面した時、私も両親が辿った人生を懐かしんだりするのかもしれない。

 ”わたし”が母が生きているうちに偲ぶということが自然にできたのは、もしかするとうらやむべき環境なのかもしれないなと思う。

☆死を待つ人間にはエネルギーが必要だ

 母が八十三歳を迎えた。しかし母は生きている。「母は八十三で死ぬ」と思っていた”わたし”はこんなことも考えるようになる。

 母が死んだら、もう見舞いに行かなくても良くなる。医療費の支払いもなくなる。時間的にも経済的にも、ものすごく助かる。

こっちも歳食ってきて、体力の減退をひしひし感じている。

しかし、すぐにそんなことを考えた罪悪感が、道徳を説く。 (P.63)

 介護は大変な負担であろう。そして先も見えない。お金も時間も体力もぶんどられる。楽になりたい=介護を終える=親の死 である。それを望んだことで罪悪感を抱えることもあるかもしれない。

”わたし”の気持ちを誰が責められるだろうか。

”死を待つ”とは”看取る”とはこういうことなのか、と何となくではあるが学ぶことができた。

 

 

 さて少し話はずれるが、人は自らの死に直面した時”戻りたい時代”を懐かしむのだという。

 その時代がいったいいつであるのか、死ぬ間際まで知ることができない。

願わくば、思い起こす時代が、死ぬすぐ前だったらいいなと思う。

ただ、どの時代を懐かしむ、とかどのような死を迎えるだとかは神様のすることらしいので、私たちは最後にあらがうことはできないのだ。

 仕方ないね、神様のすることなのだから。その代りといってはなんだけれど、生きている間に全力を尽くすことを勧めたい。